千葉・房総エリアをライドしていると出くわす緑の景色。
新緑が眩しい季節の写真に絡ませてエッセイする緑や自然に関するエトセトラ。
INDEX
緑のある環境や自然と触れ合うことには、セラピー効果がある。
現代人を襲う、「ストレス」「不安や心配」「自律神経の不調」そのほか数多のナーバス要素・・・
それらを和らげるのに、薬に頼るのではなく、自然環境に身を置くことで心身をケアすることを「緑の処方箋」と呼ぶ療法があります。
レジャーやアウトドア、森林浴など、これまで呼ばれてきたものがネーミングを代えただけじゃん、とツッコミどころですが、
〝緑の処方箋〟というベールをかぶせると、お遊び要素が薄まり、正当であることを演出できる。
お医者さんの後ろ盾もあり、部屋から飛び出すための口実になる都合良い言葉。大義名分。
確かなことはわからないけど、プラシーボ効果にあやかって「緑と触れ合ってれば医者はいらない」
そんな境地まで持っていけたら儲けもの。
参考 薬の代わりに処方される「緑の処方箋」とは? GIGAZINE
森の中に足を踏み入れると、密度の違う空気が充満していることに気づく。
その空気の中には、樹木自身が害虫や微生物から身を守るために〝フィトンチッド〟という化学物質を放出している。
植物が光合成して酸素を放出する際に二次的にフィトンチッドが発散される。それは人間にとっても、不安や緊張を和らげ、免疫を活性化させる作用を持っている。
適した時間帯は午前中。
気温の上昇が少なく空気の動きが緩やかなため、密度の濃いフィトンチッドが漂っていると言われている。
雨が降るのに、なぜキノコが関係しているかというと、
雨を降らせるための「雲」ができるには バイオエアロゾル=空気中に漂う微生物 が関係してくる。
雲とは、水滴や氷の粒の集まり。重さは数トンにもなる。
雲を発生させるためには「湿度100%にすればいい」というものではなく、いくつかの要因が関係している。(雲はどうすれば作れるのか?浮かぶのか?といったメカニズムの解明はまだ完全ではないらしい)
そのいくつかの要因に「水分を蒸発させないで、水滴のまま集まらせる」=水滴の集合体を維持させる、キープレイヤーが不可欠。
この作用をもたらす要素のひとつが、キノコが出す胞子だ。
キノコは活動範囲を広げるため胞子を出す →その胞子=微生物には水分を蒸発させず冷たい空気のかたまりをつくる作用がある →冷たい空気は周囲に対流を起こし、キノコの胞子を遠くまで広げる →二次的に雲ができて、雨を降らす
つめたい雨が降る要因は不明。でもキノコの胞子が関係しているかも。▶via. ガリレオX
ちなみに、上空に浮かぶ雲から雨粒が降るには、水の粒が一定の大きさにならないと雨にならない、といわれている。
2mmくらいになると浮遊するのが維持できなくなり、雨として降り注ぐ。
雨粒としての大きさは5mmが限度で、それ以上の雨粒があったとしても地表に到達するまでに分裂して、5mmクラスになってしまう。
雲の中の水滴は、ほとんどが気温0℃以下で生まれます。
氷の粒にしろ、水の粒にしろ、純粋な水から自然に作られた粒の大きさはあまりにも小さく、蒸発速度の方が早く、粒の状態を保っていられません。
最初の粒は、水が沁みこみやすい、親和性の高いチリやホコリを核として作られます。 大きさは、直径0.0002~0.001mmぐらいです。そして、チリやホコリを核として作られた粒は、雲粒となり大きさ0.01~0.02mmぐらいに成長します。粒は他の粒とぶつかりながら次第に大きくなっていきます。さらに粒どおしがぶつかり大きくなり、大きさ0.1mmぐらいになると、地表近くの雲、要するに霧(キリ)になります。
これが雲の中の上昇気流や下降気流で振り回され、粒どおしがぶつかると、直径2mmぐらいの粒になります。 こうなると通常の上昇気流・下降気流では粒を空気中に支えるのが難しくなり、地上へ落下し始めます。
そして、落下中にさらに他の水滴とぶつかり合うとさらに大きな水滴となります。 ぶつかって大きくなった粒は、あまりに大きくなると落下のときの空気の抵抗でつぶれ、やがて2つに分かれます。
このときの大きさは恐らくは5mmぐらいで限界ではないか。 と言われています。 というのも、それ以上になる後落下時の空気の抵抗が大きく、水滴は2つに割れてしまうからだそうです。
そんな知識を持っていたけど、「紀伊半島の大台ケ原は、日本一の豪雨地帯。雨粒直径が10mmにもなる。それは雨の表情を描き出す。」という話を紹介していたので、世界は広いからもっと大きな雨粒もありそうな気がしている。
ニッポン印象派 「雨の妖怪の森/大台ケ原」 - NHKオンデマンド
日本一の豪雨地帯として知られる紀伊半島の大台ケ原に分け入る。「棒雨」と呼ばれる強烈な雨が作り出した奇岩の絶壁、苔(こけ)や菌類が緑のベルベットのように覆う深く暗い森。台風がなぎ倒した木々が墓標のように広がる山頂。この地に伝わる妖怪「一本たたら」の物語とともに、次々と表情を変える「魔の山」の雨と光の奇景を描く。
食べ物として、あるいは薬として私達が古くから親しんできた“キノコ”。そんな身近な存在であるキノコだが、その歩んできた進化の道筋を探ると、意外にも地球の豊かな生態系を創り上げ、ひいては人類誕生へと導いた生物であることが見えてきた。近年の研究成果では、キノコが雨をも操る力を秘めている可能性が示唆されているという。キノコには一体どんな謎が隠されているのか?
ライド後半、ヘトヘトになって考える気力も湧かず、無心になってペダルを漕いでいると、気まぐれに “その感覚” はやってくる。
「自分」とそのほかの境界線があいまいになって、周囲の景色と一体となる、混ざり合う感覚だ。
常日頃、私たちは無意識に「じぶん」と「そのほか」を区別して境界線を引いている。
誰かに教えられたことではないけど、それは危害を加えるものから警戒したり「じぶん」を防御したりする産物なのかもしれない。
だけれど、その境界線が独りよがりで不器用なものだと、ときに感じることがある。
周りには緑に溢れた自然が広がっているのに、見ている景色は、1枚バリアを隔てて眺めている感触を拭いきれない。リアリティなハズなのに無意識にATフィールドを展開して寄せ付けないようにしているのか。馴染むことができない。
「境界線を取っ払う」
意識して簡単にできることではないけど、その感覚を掴んだとき、自然からのメッセージや恩恵をより多く受け取ることができるだろう。
もみじの若葉が陽の光で透ける鮮やかさは、紅葉と同等に格上げされても良い。
時間という概念は、厳正であり空漠だ。
時間は、空間・習慣・感情・世間 に大きく影響される。(ほぼ全方位じゃねーか)
誰にでも等しく流れるけど、当事者がどう感じているかは観測できない。
最新の科学が語る〝時間〟については、理解難解ゾーンに突入してしまうので避けるけど、
日常的に接する肌で感じる時間は、大きな潮流があり、気軽にコントロールしたり、手なづけたりするには、思うようにいかない存在だ。
ピーター・ドラッカーは、
「時間は最も乏しい資源で、それを管理できないならば、他の何も管理できない ──」
そんな言葉を残し、ルーズな人間を全否定する言葉で殴ってくる。
「キャリブレーション」とは、モニタ画面の色調が規定値の発色を正しく発揮しているか較正すること、確かめること。デジタル機器関連に用いられる用語。
「チューニング」とは微妙にニュアンス、使い所が違うけど、ここでは同じ適用でも差し支えない。
「時間をキャリブレーションする」とは、
時間の大きな潮流/うねりに振り回されないよう、ニュートラルになれるきっかけやシフトダイヤルを設けてスピードコントロールしようって内容。いわゆるON/OFFスイッチとか、仕事とプライベートの切り替えとかの言い換え。
などなど由々しき問題は、時間との付き合い方にヒントがある。
これは自分なりの考え方だけど、時間はその場の空間によって違う表情の時間が存在している。だからその時間の表情を感じ取れるよう意識している。
それは気分や行動、外部影響で、たやすく同じ様な時間に上塗りされてしまうけど、言われるがままなら日々は早く暮れていくから抗ってみる。
いくつか試して自分にフィットしたものは少ないけど、自転車で走ることは今のところ飽きずに続けられている。頭で考えるより体を動かしたほうが強制的にモードチェンジできる。
確かなことはわからないけど、せめて大きな時間の潮流から少し抜け出して、束の間のMyタイムを確保したいものだ。
久留里城跡地からの展望。丘の上に行くまで自転車は押して行くパターン。
なんとなく捉えていた〝調和〟
調和を考えたとき、思い浮かぶのは「対立することなく釣り合いがとれている状態」そんな風に解釈していた。でも最近読んだ本では、違うことが書かれていたので紹介したい。
まず、対立はできてもOK、だということ。
対立を避けるあまり全部が同じ意見で画一的になったり、活気がない状態は良くない。
秩序を乱さないため規律を守り服従/同調することは良い面もあるが、逆に異論を排除する・誤りを意見できない負の面もある。
わかりやすいイメージは弦楽器だ。
弦がたるんでいれば音は淀み、弦を張り詰めすぎれば弦そのものが切れる。
ひとつひとつの音が主張しすぎればメロディにならない、一緒くたに奏でたら単調になってしまう。
ハーモニーが生まれるためには、個別の違いが存在してなければならない。
対立するけど成立している=それは〝陰陽〟の思想につながる。
境目を引いて区別するのではなく、互いが依存して絡まり合って存在している。分離してしまったら存在をなさない。
もともと「陰陽」とは、丘に陽の当たっている部分と陰になっている情景が語源になっている。1日のなかで、陰と陽の部分はその状況で変化する。停滞や固定された状態ではない流動性の中で築かれるバランスの取れた多様性。
陰陽を表す太極図。この図が二元論的に誤解する原因になっている気がする。静止ではなくモーション。境目は区別されない。
ピアノの鍵盤は88鍵で、それ以上増えても人間の耳で聴こえる音程の上限を超えてしまう。演奏者の腕の届く範囲も限られている。
「多様性を尊重する」と言葉で謳えば簡単だけど、88鍵以上に膨れ上がった世界の多様性を、持て余すことなくいかように扱えば〝調和した音色〟を奏でられるのか・・・
Ebony and Ivory
live together in perfect harmony
Side by side on my piano keyboard,
oh Lord, why don’t we?黒鍵と白鍵が並びあい
整然とした調和を織りなしている
おぉ主よ、なぜ私たちはピアノの鍵盤ように歩み寄れないのか ──▶ “Ebony and Ivory” Paul McCartney & Stevie Wonder
調和は、かなり究極の理想像だ。
エネルギーの分野で永久機関がまだ開発されていないように、政治の分野では調和は昔から理想とされるが維持し続けた前例がない。
自然や宇宙に目を向けると、調和の一端が存在していることを気付かされ、自分たちもその一環でつながっている。それは都合のいい勘違い・解釈なのか、確信してもいいものなのか。
確かなことはわからないけど(三度目) 自然から学ぶことが多いことは事実だ。
バイオミメティクス(生物模倣) などの話題を知ると、こういう方向に “調和” が築ける未来があるような気がする。
調和の在り方を言葉で説明するのは困難だけど、判断する審美眼は自然の摂理から知らず知らずのうちに教えてもらっている。
風が走り、青田がゆれる。GIFにしたけど伝わるかな? 現場で確認してほしい。