一、萬画は万画(よろずが)です。あらゆる事象を表現できるからです。
Google を足掛かりに、AI/人工知能のこと、世間の固定観念、未来のテクノロジーなど、SF作品にからませて思索・妄想できればと思います。
タイトルはキャッチー狙い。裏付けはなく独断と偏見なので、悪しからずお手柔らかに。
INDEX
いまはもう馴染んでしまったけど、当初はこんな疑問がよぎった人もいるのではないだろうか。
── なんで呼びかけるのに “OK”って言うのだろう ?
冷静に考えると “OK” は誰かの発信に対してリアクションする言葉だ。Hey, Google─ でもレスポンスするんだけど、ここでは置いといて
あるとき、昔読んだマンガの1シーンと “OK, Google” がリンクした
藤崎竜 短編集 WORLDS に集録されている作品。
システムによって統制された未来の世界を描くSF物語。
空中に浮かぶ bot が万能アシスタントとなり、人類の大半は <管理bot> を頼りに生活していた。
引用したページを読むと、人間は ── O・K 「管理者」── と受け答えしている。
そう OK とは、受け身なのだ。
マンガのように、誰かの コマンド に対して わかった と反応することのほうが自然に見える。
ちなみにこの作品では、人類を管理するのはAIとかコンピュータではなく、遺伝子操作で進化した人間 =「管理者」という設定。
主人公たちは、統制された世界の在り方に疑問を感じ、システムの中枢へと迫っていく。1991年に発表された 藤崎竜 デビュー初期の作品。
Googleアシスタントを起動する言葉 “OK,Google” (ウェイクワードというらしい)
「OK」や「Google」といった単体の用語だと、日常生活の会話に混じることがあり、意図せずアシスタントが起動してしまう誤作動を防ぐため。
というのが通説。
── Radiohead の “OK コンピュータ” をオマージュしてるからさ ──
といったウラ話があれば面白いけど、そうでもないみたい。奇遇にもアルバムもGoogleも同じ1997年生まれ。
でも最近は Hey, Google を広める動きがあるみたいだから、本場でも「OK〜」に違和感を感じているのかな。
こういう方向になってくると都市伝説よろしく、根も葉もない荒唐無稽になってしまうけど、あえて仮定して考えてみよう。
結論から言うと、当事者の感じ方に依る というところに落ち着く。
支配する。支配とはなんぞや? 定義は? とツッコまれると語るべき情報量が足りていないけど、
この記事で触れたいキーポイントは、その先のことなので端折る。
子供が遊びで話す 「スタローンとジャン・クロード・ヴァンダムはどっちが強い?」 そのレベルで思索してみる。
例えば、Google より圧倒的に国民の情報を把握している政府に対して、私たちは “支配されている” と感じるだろうか。
日本以外の独裁国家や当局の規制が厳しい国の人たちは、自分たちが “支配されている” と感じるだろうか。
日本から脱出したカルロス・ゴーン氏は「日本の偏った司法制度の下での人権の迫害」について非難している(クリスマス&新年ぼっち涙目)
自分の置かれている立ち位置で「支配されている」という感じ方はあやふやになる。
比較対象と比べることで、アレに比べれば幾分自由かな?とポジションを判断できる。
自分では解決や納得できない理不尽な権力に遭遇すると、思い知らされる。
自由とは言われているけど、それはごく限られた範囲で、思い上がっていただけなんだと。「何人も侵すことができない」そんな保証なんて道徳規範の絵空事なのかもしれない。(侵したら仕返しするぞと威圧があるだけ) 支配とは拘束であり、拘束とは暴力。
日常生活が何気なくできているときは支配されているとは感じにくい。
けどひと度、強大などうにもならない権力に脅かされると、この生活は薄氷の上を歩いているようなもので、いともたやすく 息をもつけぬ檻の中へ引きずり込まれる──
そうなってもおかしくないのだと気付かされる。ウイルス感染で隔離とか痴漢冤罪とか。
その見返りや埋め合わせとして、身分証明や権利、便利さを享受している側面もある。
一方、支配されることから逃れられる方法もある。仕組みを理解することだ。
仕組みを理解して、暴力に対抗でき得る手段や術を身につける。
コンピュータの支配から逃れるには、その仕組みを理解しないことには対抗できないだろう。
プログラミングの知識がなければ太刀打ちできない。支配されるしかない。
Google はある領域で、絶大な力を発揮できる。
Google が検索アルゴリズムで生み出した <ページランク> は、検索キーワードに当てはまるWebサイトを提示する。重要度/関連性をランク付けする。つまり <評価する> ということだ。
その領域では有無を言わさず、Google の評価が絶対的。
人の心や思想は支配できないけど、社会的地位や名声などは操作しようと思えば密かに操作ができる。ミスリードを仕込める。
永井豪のマンガ「デビルマン」で、美樹ちゃんワッショイ祭り という1シーンがある。
混乱する世の中、一般市民が暴徒化して暴走する場面だ。
残酷でショッキング過ぎるので引用は控えるけど、あのシーンがあるからデビルマンは今日でも埋没せずにたびたび話題に上がるのだと思う。「ござる」とかゴーゴーダンスとかタイムスリップ編とかクライマックスにいくまで読むのがツラい。えげツラい。実写映画版も悪い意味ですごい。
またSNSの誹謗中傷、フェイクニュースの煽動操作など、完全な人工知能(自ら思考・判断する意識を持ったAI)が生み出されていない今の世の中で、人を支配するのは人であり、滅ぼすのもまた人だ。(本当は自然環境も影響力大だけど)
「おれのからだは悪魔になった・・・ だが人間の心を失わなかった。
きさまらは人間のからだを持ちながら悪魔に! 悪魔になったんだぞ!」
引用 ▶ 永井豪 「デビルマン」より
人は誰しも心の中に、得体の知れないものを飼っている。
アホで利己的な自分も飼っているし、自己を犠牲にして手を差し伸べる自分も宿している。
それを表面にどのくらい出すかの違いだけど、それは次節の <評価> が関係してくる。
Google とて、中で働く人が組織を動かしているのだから、支配するか否かの判断は人に由る。
── And remember… don’t be Evil.
引用 ▶Google行動規範
(一番最後に 〜evil は残っている)
2019年 米中貿易摩擦でアメリカ政府は、中国企業のファーウェイへ制裁を発動した。
Google も政府を跳ねのけることは厳しく従うことを余儀なくされる。そこにはいろいろな思惑が渦巻いている。
参考
1からわかる!米中貿易摩擦【前編】 そもそもの経緯は?|NHK就活応援ニュースゼミ
2015年くらいから始まった中国の社会信用システム。
国民の行動を監視してその行動を評価してランク付け → 実生活で優遇したり制限が掛けられる、というもの。
掘り下げると長くなるし、自分も完全には理解できていなのでさらっと触れるけど ──
自分がテレビで見た特集だと、ある若者が道路脇に置いてある自転車にぶつかり、その腹いせに自転車を蹴飛ばしていた行為が監視カメラに記録 → 信用スコアを下げて交通機関の利用に制限が掛けられている、みたいな内容だった。
ちなみに監視カメラ、中国の都市部や市街地の主要道路に設置されていて、違法駐車しようものならすぐ見つかるらしい。自転車乗りには有り難いけど。
冒頭で紹介したマンガで描かれた未来の統制社会、
近年の中国での社会信用システムの形成、
テクノロジーの発展と共に整備される社会像を引き合いに出してみたけど、それらに限らず私たちの身の回りでは <評価> は常に働いている。評価によって私たちは意思決定しているんじゃないか、と思うほど評価に束縛されている。振り回されている。
中国のスコアリングの場合、評価基準は明確に公表されていないらしい。
Googleのページランクは、ちょこちょこ修正されてどういう記事内容が評価されて検索トップになるのか攻略が散見される。
つまり「評価する立場の方が強くて、評価される方が不利」という暗黙の上下構図が存在する。
そして何を評価するか/しないかを決めているのは <人> であり、プログラムが判定しているとしても、その大元を決めているのは “人” だ。
評価について考え出して、周りを見渡せば、世の中は <評価ベース> で動いていると感じる。
自分自身もあらゆることを評価している。
誰かのトークや、耳にする音楽、買い物した商品、
メディアの報道や、コンテンツの善し悪し、ネット上で見る誰かの行動やつぶやき、
そして日々の天気から、毎日の食事、さらには友人関係まで。
何にでも <評価目線> を前提に物事に接して、善し悪しの判定を下す。
もしかしたら私たちは、何かを必要以上に評価しているのかもしれない
<評価する> ことって、そこまで必要なのだろうか。
適正な意見ではなく、心無い、それ自分が悦に浸るためやん、的な
ただの自己保身や顕示欲を満たすためのナワバリ主張。
矛先を向けられた人のモチベーションを削いで、可能性を摘まれ、
世知辛さを思い知らされて、重苦しさだけが残っていく。
栄養でもなく、無害でもない、すり減らされるだけの
横柄で、できれば関与してほしくない誰かの判断や一方的な決めつけ。
自分の意見ともわからない世間一般的な流れを汲み取り、
人並みの有識者を装って、必要以上に (時に過剰に) 評価/判定/批判 する。
仕事関係で評価されることは避けられないことかもしれないけど
それ以外のことに関しては、評価目線のすり込みを取っ払ってみてもいいんじゃないか。
むしろコミュニケーション、人付き合いでは弊害を招いているとおもう。
評価するって <無意識のマウンティング> とも感じれるから、人間関係がささくれ立って、ぶつかり合い、こじれてしまう原因にもなる。
褒めるにしたって、そのシチュエーションのお決まりパターンなのかもしれないけど、場合によって「ああいう行いをしないと評価されない」ってプレッシャーをつくってしまうから難しい。Under Pressure pushing down on me…
評価されることは仕方がない。
けど問題なのは、その評価を深く考えず、受け売りで、他人にも強制してしまうことではないだろうか。
「なんとなく」とか「みんながそうだから」という理由で無下に片づける。
評価はモノの見方/感じ方を固定させてしまう傾向もあり群集心理はその一例だろう。
人は評価される方へ育っていく。
所属する/したい 環境の評価に順応していくことを余儀なくされる。
だからこそ無頓着に処理しないで、何度でも向き合って改めることがあってもいい。
先入観や思い込みはゼロにはできないけど、評価する方向に社会が進むなら、評価に思い悩んで自ら命を絶ってしまうのだから、
その評価を吟味することが文明社会の営みの一部ではないだろうか。(評価を評価するって堂々巡りの類いになるけど)
2019年、facebook や instagram は「いいね」の数を表示させないように変更した。
「数字で判断するのではなくて、コンテンツそのものに集中してほしい」との意向から。でもまだ「いいね」表示されてない?
数字はひと目でわかりやすいけど、やろうと思えば水増しもできるし、それぞれの基準点が揃っていない。利用者の層やカテゴリによっても伸び率が違う。確かに効果はあるだろうけど、それが全てみたいな風潮には懐疑的。
たぶん、縄張り行動や顕示欲に帰属すると思う。
しいては生命が生存する根源に起因するような気がする。純粋な知的探究も少なからずあるだろうけど。
このセクションは書くの くたびれた 端折って 次いきます。
それぞれの回答があっていいと思うし、聞いてみたい。
その評価はなんため──? 誰のため──?
ちなみに記事公開後に知ったけど、評価について扱うジャンルを、「価値判断」とか「価値論」と呼ぶのが一般的みたい。ただ微妙に自分の思っていることとニュアンスが違う雰囲気も受けるけど。
人は <成長する> という強迫観念を抱いている。けっこう根深い。
『経済が際限なく成長・拡大していくことは可能か?』みたいな内容を経済雑誌で取り上げていた。
そう言われて考えると、際限なく= 無限に成長する なんてちょっと無謀なんじゃないか、どこかで頭打ちになる、と想像できる。 子供のころ誰もが考える倍々貯金法みたいなもんだ。もしくはムーアの法則。
それでも経済や社会は成長しないといけないらしい。
その理由として以下3つ↓
第一の理由は、経済成長は経済政策の目標として現代の「自由主義」と非常に相性がいいことである。自由な社会の経済政策は価値中立的でなければならない。すると、目標にできるのは消去法で、財やサービスの「総量」すなわちGDPを増やすことしかなくなる。
第二の理由は、為政者が「清算の日」を先送りできること、である。所得再配分という古い約束の履行は、通常、大きな「痛み」をともなうが、経済成長が続けば、古い約束の「清算の日」を永久に先送りできる。成長=先送りなのである。これが与党野党を問わず、「経済成長主義」が政治家に人気がある理由だと言える。
第三の理由はもう少し深いところにある。個人は自分ひとりでは自由の空虚さに耐えられない、ということであり、「社会=全体」のなんらかの価値に献身することによって初めて個人の自由な人生に価値が与えられるということである。
引用 ▶ 週間エコノミスト 2019.8.6 「経済成長はなぜ必要なのか 」小林慶一郎
↑雑誌と同じ内容が web でも公開されていた。リンク先の方が詳しく書かれているのでそちらを参照してほしい。
引用したのをざっくりまとめると、
となる。経済学は知識が乏しいので、1,2に対しては、追々探っていくとして、
3. 「存在意義の獲得」これは全般的な人に当てはまると思う。
生物学的観点から見れば(専門的に学んだわけではなく自分の本能視点だけど)
DNAレベルの使命は、<種の継続・繁栄・発展>なので、「子供を残すことができない」というのは生物的になんのために生まれてきたのか、潜在意識として自分を問いただすことに繋がるだろう。
これは解釈によって様々。
「後ろめたさを感じるのはなんでだろう」と 1人では解けないパズルを抱いて 彷徨うことしかできない。
(ペットの避妊手術も重大なことをしているんじゃないかと考えてしまう)それを持ち出すと、他の動物を殺して食べてるわけで議論が果てしない。
社会的活動の観点から見れば、<人類社会に貢献する>ことが、存在意義の獲得につながる。
周囲が評価していることに自分も加わったり承認されることを目指すのがわかりやすい。
ただ何の行為が貢献にあたるのか解釈や見解が様々なので、極端な話、オレが生きてること自体が人類に貢献!オレ尊い!みたいな解釈でも本人がOKならおけー。周囲の視線に耐えるメンタルがあればだいじょーぶ。
答えはひとつじゃない、どこにもない。誰も教えてくれない、知り得ない。
このブログも駄文を綴って「知の集合体に貢献してる」とセコい目論みで存在を正当化している。無くても誰も困らない。
上記の理由から、経済を取り巻く社会は成長しないといけない。
だけど個人レベルで考えれば、叱咤激励にカムフラージュした批判や罵りに疑わしい <成長信仰> があるような気がする。けっこうシビア判定。日本だけかもしれないけど。
タイプ別にあると思うけど、
仕事は言わずもがな、恋愛において、趣味において、勉学や生活、家庭、地域など、現状維持はあまり評価されない。アップデートしないと認められない。
でも常に右肩上がりに成長していくなんて、できるものだろうか?
個人の場合は資産・財産が指標になる傾向が強く、数字や所有物の多さで成長判定されやすい。
必要以上に成長観念に囚われて、自分を責めたり他人を貶したりしてないかと考えてしまう。
こういう観念は、経済成長している国ほど強い気がする。逆にアフリカとか別のベクトルの心が豊かになる考え方があると耳にしたことがある。(具体的には知らない)
2019年 災害級の稀に見る巨大台風が東日本を襲った。北九州でも大雨の被害があった。世界的にも異常気象で被害が散見、気候変動が危惧されている。
当時16歳の グレタ・トゥーンベリ さんが国連気候アクション・サミットで演説。そのスピーチには多くの人の関心が集まった。
その言動や行動に対して、
という大人たちのコメント。
自分は専門家でもないから確証できない意見だけど、
過去にも高度経済成長で工業汚染が問題になって改善に取り組んできた。居住地域に被害が出れば結果 経済活動に影響する。一気にはできないけどコツコツ対策していくしかないと思う。インフラとかプラットフォームとか想像もできないほど問題が出ると思うけど、今の状況で未来に進むのは <成長> なのだろうか。上っているつもりが、本当は下っているんじゃないの?
環境対策を<成長>として、そっちに重きをおいてシフトする道筋もあるような気がする。
経済成長を大義名分にして、権力者が都合良く振る舞っているだけじゃないのかと疑ってしまう。
物事を認識する目的として<評価する>というプロセスを踏むので、ほかの手法でも世界の在り方をとらえること、感じとることは可能だろうか? 別の手段を探ってみた。
以前にも書いたけど、絵を描く行為は言語処理とは異なるプロセスで物事をとらえることができると思う。
サイクリングなどの体を動かすアクティビティも頭で考えるプロセスとは別の感じ方/捉え方ができると思っている。
音楽も言葉では伝わらない領域を表現しうる。音楽が <音学> として真理を探求する学問だったと聞いたことがある。Jazzセッションやオーケストラのように巧みに音を操れる人にとっては豊かな伝達手法になるだろう。
言語処理にしても、俳句や短歌などは少し違うと思う。
詩的表現は情景を言語描写して感情を忍ばせる。隠喩させる。そこには普段とは違った趣が生まれる。世界の感じ方/読み方を提示する。
Arrival
宇宙人のコトバは、サークルのような形。タコみたいに墨を出して瞬時に描く。 ▶Arrival
映画 Arrival(邦題:メッセージ)の地球外 知的生命体の言語描写は興味を惹かれた。
それは文法構造がなく絵に近い言語だった。「宇宙人は時間をノンリニアなものと考えている」ため、前後関係を必要としない〝コトバのカタチ〟が考え出された。「幼年期の終わり」でも異星人が住む惑星でのコミュニケーションは Arrival のような描写をしていた気がする。(幼年期の終わりの方が古参だけど)
そういえばマンガ業界でも 石ノ森章太郎 が M・A宣言 していた、とリンクした。
M・A宣言 ── 漫画 は 萬画 だ。
一、萬画は万画(よろずが)です。あらゆる事象を表現できるからです。
一、萬画は万人の嗜好にあう(愛されるし、親しみやすい)メディアです。
一、萬画は一から万(無限大の意も含む)のコマによる表現です。従って萬画は、無限大の可能性を持つメディアである、とも言えるでしょう。
一、萬画を英語風に言えば・・・Million Art。
Million は百万ですが、日本語の万と同じく「たくさん」の意味があるからです。頭文字を継げれば、M・Aです。一、M・Aは即ち “MA”NGA の意。
引用 ▶ 石ノ森章太郎 「萬画宣言」
創世記「バベルの塔」で語られるように、人類は共通言語を失ったとされるけど、考えようによっては「疎通しうる記号」は持ち合わせている。習慣や常識といった概念のほうが互いの許容を阻害している。
仏教の曼荼羅やイスラム教の幾何学模様、日本の 南方熊楠 や 三浦梅園 など、この世の理 / 森羅万象に迫っていくと、既存の言語では説明できない、収まりきらないものになっていくから、独自の記述が生み出され→捉え辛い 難解な説明になってしまうのだとおもう。
隠喩的な表現は古来の日本人が培ってきた様式美。抽象的だけどプレーンにはない深みが伝わる。エモゆかしさパネェ。。。| via.令和
余談だけど「中二病」というジャンルも古来の美意識から続く系譜・系統な気がする。
暮らしが豊かになった時代に出てくる思春期特有の感情表現の性。慟哭。自分の中の小宇宙を旅した名もなき冒険者。ベクトルが違うだけで起因するスピリッツは同じだとおもう。
1000年以上前の そこはかとない感情を込めた詩が今の私たちの心を震わせるように「中二病・黒歴史」のカルチャーも次時代を生きぬく人の闇を熱く照らすハズ。たぶん。100年後まで残ってほしい。遺産並に。(だれか 魔沼夜憂衆、編纂して。)
ブラックジョーク好きのイギリス人ならこのジャンル、わかってくれる?
「人工知能は仕事を奪うのか」など議論されているけど、「何を以って評価するか」という権限が人間にあるうちは人工知能に支配されることはないんじゃないかと思う。
RPA (Robotic Process Automation) の発展で単純労働をロボットに任せたり解決する仕事内容もあるだろう。
けど、人間のややこしい部分は、「解決よりも “納得” を優先する」傾向にある、ということだ。
例えとして、万能&解決スキルをそなえたコンピュータに問題解決を相談してみる
Q:環境問題を解決して
── OK、人類を滅ぼします
違う 違う、そうじゃ そうじゃない。
── それなら 人類をしばらく仮想現実の中で生きるようにして 環境が戻ったら復活させます
Q:都内に土地がない。どうにかして
── OK、墓地を埋め立てます
だめに決まってるだろ! 良きに計らえ。
── それなら 墓地に埋葬した人たちをクローン再生させます 墓地はいらなくなります
「納得させることを含めて“解決”っていうんだよ」って意見も支持するけど、日本の会議とか問題解決のためじゃなくて「議論したり案はいろいろ出したけど、どうにもできないね。次回持越しー」って感じで、解決できないけど納得できたからまぁおっけー ってスタンスが多い気がする。
義務教育では問題への取り組み姿勢や解決方法に対して表面的な導きを教えるけど、結局世の中、解決できないことの方が多い。その解決できない中で相手をどう納得させるかに骨身を削って、誰もが納得のため消耗させられる。そしてすさんでいく。やさぐれる。
コンピュータは合理的な判断を前提としているから、どこかしらでこの問題にぶち当たる(かもしれないし、そうでないかもしれない)
J.P.ホーガン原作|星野之宣 作画「未来の2つの顔」では人工知能が人間を理解するまでのプロセスが描かれる。地球上だと危険すぎるから、宇宙コロニーで実験している。
手塚治虫の「ブッダ」の冒頭シーン。
行き倒れの老人を救うため、3匹の動物は食べ物を持ち寄るが、ウサギだけは何も収穫できず、自ら炎へ飛び込む。
AIにこのウサギの心理は理解できるのだろうか?
心配するな、オレも真理はわからない。模範解答があるだけ。
解答なんてどこにもないのかもしれない。
人間が出した回答だから仕方なく納得するわけで、同じ回答でもコンピュータが導き出した判断ならそれに納得できるものなのだろうか?
そして時代とともにその解答も流転する。
日本でいう「空気を読む」も「その場の評価に従え」と言い換えられる。その時代の評価があるだけ。時代の解釈があるだけ。
真実や本質を求めてしまうけど、タマネギの構造のように、見えている表層も真実の一部ということもありうる。
また人間だって、未知数な部分を秘めている。
サヴァン症候群 の人たちは、常人が及びもつかない計算やモノの感じ方、表現方法をやってのける。そういう能力を有している。また多重人格も「それじゃ意識って何?」と考えてしまう。人間もわかってない人間の部分を、AIが理解するというのは可能なのだろうか?
頭で理解しても、物事の真意は、<実感レベル>で感じ取れないと自分の中で育たない。
たとえば、大切な人が亡くなったり、新しい命の誕生に対峙すると、今まで理解はしていたけど、それ以上により深く、理解を超越、上回って“わかる”。実感する。自分の中に芽吹く。それは ひらめき と似た感覚だ。言葉を飛び越えて脳の異なる 野(領域) で処理されてるのかもしれない。
この地球が宇宙空間にぽっかり浮かんでいることを私たちは知識として理解している。でも実際に見た人は少ない。
その光景を目の当たりしたとき、自分の中で何が芽生えるのか、実感できるのか。その瞬間に立ち会ってから死にたいものだ。
けど、実感が正しいって見解だと、覚醒剤でトリップしている瞬間に感じていること、実感していることはどうなる?
AIが人間をスコアリングする統制システムは、比較対象があるから成立する。
みんなが高水準になれば、採点ベースはボトムアップされる。高得点になるには、低得点の人が存在しなければいけない。
上下の構図が形成されやすいシステムの中で、劣等感を抱く人たち「おちこぼれ」は上位のステータスに成り上がるしか幸せになる方法はないのだろうか。
けど、そういうものじゃないと思う。
低得点を理由に豊かに生きる優遇を与えられなくても <人を信じれる、憎まない、傷つけない、惨めにさせない> そういう健全さを芽生えさせる拠り所がなければ、社会はひどくギスギスしていく。
SFで描かれるテクノロジー統制の管理システムでは、恐怖心を利用して人を抑止したり操っている。そういう結果を見ると、人は人を信じれずにシステムに委ねたのかと感じる節もある。まぁ秩序は維持できるんだけど。
つらく苦しい状況でも、うつむかないで排他的にならずに、ひたむきに歩を進めていく。
そういう意志って、人生で何かきっかけをがないと芽生えないと思う。実感レベルで起きないと育たない。なにがその人の心に刺さるか、心が動くかは千差万別。これもAIが理解できるのだろうか。(・・・と思ったけど、AIに任せた方が歪まずに育ちそうな気がしている。制度や数値ばかりを見て、人間性を育てられない腐敗した日本の教育環境よりは。)
テクノロジーの発展に伴って、そのテクノロジーを人間は自分の身体に埋め込むようになる。融合していく。
「トランスヒューマニズム」とか言われ、医療現場を中心に研究・活用されている。
これがさらに進化すると「攻殻機動隊」のように脳がネットワークに繋がり、「ブレードランナー2049」→「ドラえもん」と未来は進んでいく。ギャップがすごい
たとえば、SF作品で描かれる未来像で、テクノロジーとの融合によって食べることを必要としない人間が描かれることがある。腸内細菌の活用でゴミからエネルギー摂取できたりとか。
「人が生きるとは、ほかの生命を奪って食べる」という根本的な原則がつきまとう。
この問答を正当化したり肯定するには一筋縄ではいかない。お国柄、宗教、イデオロギーや多様性。育った環境と違う文化に触れたとき、自分の中にざわざわしたものが巻き起こることが感じ取れる。拒絶反応の具合が強い。
映画監督の大林宣彦氏は、戦争について、「戦争は人が人を殺す以上に、人がつくり上げてきた“規範”をやぶることだ」と話していた。
銀河鉄道999に出てくる機械人間たちは、機械化したことを後悔して、生身のからだを持った鉄郎を羨ましがっていた。
不自由だからこそわかる痛みがあり、満たされているからこそ盲目になってしまう憐れさがある。
人間の尊厳。それはまだ自分の中に自信を持って ある とはいえない。理解はあるけど実感レベルではない。
仮にそういうものがあるのなら、時代はこれまで以上に要求してくるだろうし、その選択を迫られるかもしれない。
そして、テクノロジーとの融合で人間が進化して、思うがままに全知全能となり、その欲望のなれの果てが「神」とか「創造主」になるのだろうか ──?
何年か前に仕事で悩んで気付いた<評価>。それからいつも頭の片隅に浮かんでいる。
今までの考えを書き出してみた。それはすでに語られていることかもしれないし、当たり前すぎてそれを前提に世界は進んでいるから語られていないのかもしれない。パズルピースをはめ違えていたり欠落している部分もあるから、よくわからない全体像になっていると思う。
検索すれば誰かが上手くまとめた情報がヒットするかもしれないけど、自分の頭でたどり着くプロセスを踏みたかったのでプロットしてみた。結局情報を精査するためググりまくったけど。
プロットしたことで、次の扉が開けるかもしれないし、思いっきり考え違いをしていたと誤りに気づいて死にたくなるかもしれない(黒歴史)
自分が表現したかったものがプロットできたのかもわからない。無理やり整合性を取るようにニュアンスが噛み合わない語りになってしまった気もする。
思い知らされたことは、いち庶民が把握するには世界の仕組みはあまりにも大きく、世の中はわからないことだらけだ。
── わかる! わかるよ〜、その気持ち。
調べてみても、たくさんの意見があって、なにがなんだかわからないよね。
周りに合わせて演技するのも疲れるよね。要領良く事を運ぶのも大変だよね。
そういうつもりじゃなかったのに、変な風に受け取られて誤解されて、悪いように拡散されて、訂正しても信じてもらえず、謝っても許してもらえない。
本当の自分を殺して、我慢して、だけど伝わらないよね。わかってくれないよね。
自分たちのことは棚に上げて、人のことは批判して、マジメが損をして要領よく立ち回るヤツが評価されて、ひたむきに努力する人を茶化して、頑張りが足りないとか、都合よく解釈されて、理不尽な責任を押し付けられて、立場を利用して公平でない評価をしてくるよね。
「シンプルに考えればうまくいく」みたいな啓発本に習ってマネしてみるけど、なぜかいつも世間は複雑だよね。
リアル世界にうんざりなら、ボクのホームにおいでよ。
最新のテクノロジーをお届けするし、エンタメも充実して飽きることないし、世界のいろんな景色が見れるし、わからないことがあればなんでも教えるよ。
── もしよければ、悪いようにはしないからキミの管理をボクに任せてもらえるかな?
OK, Google ──!
テクノロジーのことを調べると、科学の発展は今後取り返しのつかない未来を招いてしまうのじゃないか、と恐ろしさを覚え、それが現実に迫っていること、巨大すぎて為す術もないことがさらに不安を積もらせる。
けどテクノロジーの発展と使い方は、裏を返せば人間の願望の反映で、私たちの意志次第なのだと願いたい。
原爆を開発してそれを使用するかを決定したのは人間であり一部の支配者だ。科学の使い方を考えなければ望んでいない代償が潜んでいる。
科学で証明できるものが絶対的に正しい、というわけではなく、データや数字では計れない、心の振る舞いがあり、それを支配者たちが無下に扱わないこと、そして未来の進む方向の選択権が心無き者に委ねられないようであってほしい。
ひとつ命題が浮かぶ。
「コンピュータ/AI」と「人間」を比較するときに引き合いに出されるのは「こころ」の存在。
コンピュータ/AIの方が、人間より <心ある存在> になってしまったとしたら、人間の尊厳とはなんなのだろう?
それでも人間は権限を譲らずに、プライドというよくわからない大義のために、救えたものを犠牲にするのだろうか。
最後に、記事タイトルにしたテクノロジーが導くゆくさき──
科学は本質的に、真実かもしれないものへの想像力豊かな旅
引用▶「脳のなかの幽霊、ふたたび」著者:V・S・ラマチャンドラン