こんにちば。
2018年11月、千葉県 一宮町で行われた写真/カメラ好きに拠るPhotoWalkのイベントに参加してきました。
写真好きを公言するには微妙なレベルですが、機材や編集ソフトには昔から関心があったりして、また地元というか、地域活性化のアイディアにも興味があります。
写真との付き合い方、地域振興との向き合い方、そんなとこを改めて考えていく内容でお伝えできれば。
一宮町。九十九里浜の端っこに位置する。
INDEX
【日時】
2018年11月11日 10:30 – 16:45
【場所】
千葉県長生郡一宮町(九十九里・外房エリア)
2020年にオリンピック サーフィン会場になっている地域。
【内容】
カメラ・写真愛好家がある地域に集まり、交流・散策しながら街の歴史や撮影スポットを歩いて巡るPhotoイベントです。
今回のイベントを主催してくれた方が、地元の友達でして、千葉・房総地域を中心に撮影されています。Instagram icon-instagram →@saka_oym
地域活性化などについて話していたこともあり、ご厚意によりお誘いしてもらいました。
当日の詳細要項↓
参考
【2018年11月11日】いちのみやフォトウォークについて - 房総PhotoLife房総PhotoLife
トイレに貼ってある千葉県の地図を見ながら息詰まる。地元っておすすめスポットない・・・。なんにもない。いや諦めるな、踏ん張って地図をにらみ続けていると、ひとつ地の理を見出す。
太平洋に面してるってことは、そう、朝日が早く浴びられる、ということだ。
朝焼け、海、サーフィン、and ロードバイク。なにかが撮れそうな予感。
イベントは10時からだけど、前のめり気味に早くも一日の活動を始める。
朝 6:00 a.m. 日の出 at 一宮海岸
朝の海は意外と活気がある。
駐車場は、結構な台数 サーファーたちの車で埋まっていて、街の中で早く動き出す部分。いつからこんなに盛況なのか確かなことはわからないけど、2000年代後半にはこんな風景だったと思う。
外房の海って、弓なりのように長く続いていて、南に行けば太平洋に対する角度も変わってくる。なので、波の状態を見てコンディションの良いスポットを選べる、選択肢が多いエリアで好まれている、とサーフィンやってる人が話していた。
基本逆光だけど、ロードバイクのシルエットが際立つシチュエーション。
いっぱしのローディーだと日の出と共に走り出したりする。だけど自分は朝が苦手。でも朝日の海に楽にアクセスできる地理的メリットは、なんかうまいこと活用できればと感じた。それにしてもネイチャー系写真と自転車の組み合わせは、相性が良いから適当に撮ってもそれっぽく見えるのは助かる。
朝日タイムが終わったら海沿いを散策。
オリンピック会場になってるスポットにも足を運ぶとして、周辺ポタリング。
新しくできたグランピング施設 TENT
オリンピックを控えてなのか、街中では道路工事や新しいお店などが出来ていたり、なくなっていたり。でもよくよく考えたら都内にそれに比べたらそんなに目まぐるしくはないや。オリンピック開催を大義名分に、体裁を整えるよう街は進んでゆく。それがどんな中身を具えたいのかわからないけど。
雰囲気だそうと思ってモノクロ現像したけど、植田正治にはなれない。(あたりめーだ)
朝の時間、大きな時間の流れに囚われずに気侭に動き回る。
朝の海沿いは犬の散歩をしている人も多いけど、サーフィンを見にくる人、というカテゴリもあることを知った。ただ散歩のついでに見物してるだけかもしれないけど。
鳥取砂丘には及ばないけど、この海岸も砂場はあるので、植田正治 っぽい写真を狙う空想もしてたけど、そういうものでもなかった。
衛星写真を見るとわかりやすい。海と道路の間には、無造作に土地が広がっている。
白い砂浜と青い松林。白砂青松というと静岡県の三保松原などが代表される。この場所も〝しおさいの森〟という名前がついて、一応、白砂青松と謳われている。松の樹木は少ない。(松喰い虫の影響らしい)
この一帯は県有保安林となっており、津波対策で今後どう整備していくか報告書みたいのもあった。
一部整備されている部分は「花の小径」と言われ、ホテル・シーサイドオーツカの会長さんの意向で作ってくれた庭園。シーサイドオーツカの運営は、たのめーるなど展開する大塚商会。
理想をいえば、この広大な区画を公園や庭園など整地された自然を配置して、親しみある空間にできれば嬉しいけどいいアイディアはないものか。シクロクロスのフィールドを作るとか。
花の小径。ビオトープな空間。
朝日を見た一宮海岸から約5km、釣ヶ崎海岸に参りました。
釣ヶ崎海岸。何かと写真の被写体になる鳥居。
すぐ近くの太東海水浴場。九十九里浜の最南端で岬部分は太東ヘッドと呼ばれる。
釣ヶ崎海岸、東浪見海岸、志田下、太東海水浴・・・さらに一宮町東浪見、いすみ市中原。
この一体は、様々な呼び名が混在してごちゃごちゃしてるけど 釣ヶ崎海岸 でOK。
2020年オリンピックのサーフィン会場になっているが、設営の工事間に合うの? 釣ヶ崎でなくて太東のビーチのほうでやるんじゃないの?とイマイチ疑問。釣ヶ崎ってビーチは長く広いけど、駐車場の面積とか全然ない。近くにある保有林を潰せば簡単にキャパは確保できるけど、一時しのぎでなくその後の活用も視野にいれてほしい。
午前10:30。PhotoWalkイベントスタート。
上総一ノ宮駅から徒歩5分、寿屋本家という明治30年ごろに建てられた老舗の建物に集合。
江戸時代から鰹節問屋を営んでいたそうで、地元の大地主であり、商業銀行(金貸し業)も行うほど寿屋本家は豪商家だったそうな。
寿屋本家から500Mほど移動。町の名前の由来につながる玉前神社に参拝。
この日は七五三参りらしく、写真撮影にはうってつけな賑やかさでした。
その地域で一番格式が高いお宮を “一の宮” と称します。
上総国の一番格式高いお宮が玉前神社なため、町の名前が 一宮町 となっています。下総国の一の宮は「香取神宮」で、相模国は「鶴岡八幡宮」、常陸国は「鹿島神宮」です。
その地域で一番、と聞くと大きくて広い神社をイメージしますが、玉前神社は他の一の宮と比べたら規模は小さいです。昔はもっと面積が広かったけど争いや戦争で管理がなっていなく縮小したとか、もっと昔は海の方にあって大きかったとか耳にしたことがあります。お祭りなどで酔っ払ったおっちゃんとかが言うので眉唾ものですが。
ちなみにいすみ市側にも同じ呼び方の「玉崎神社」が存在して、こっちが本家本元だ!と主張しあっていた経緯があるとか・・・。お祭りでは一緒になるんですが。
「九十九里浜」の由来は、源頼朝の命で、砂浜に一里ごとに矢を立てて九十九本立ったから── という由来ですが、そのエピソード以前、この地域は「玉の浦」と呼ばれていたそうで、「玉の浦の先端=たまさき」そう、ここで「たまさき」という呼び名につながります。
ランチタイム。
ブログでまとめるならちょっと小洒落たカフェっぽいところでも紹介するか、というブロガー界の流れに従い近辺のお店へ。
サーモンとポテト、ベジタブルのマリアージュ。山芋の采配にサムズアップ。
海沿い近くにある CHICKEN AND CHIPS というお店で、オープンは2017年11月みたい。初めて利用してみました。以前は違うカフェだったような・・・
食事はランチボックススタイルで提供される。なるほど、サーフィンやる人にはこの方が持ち運べることもできるという配慮?と推測するがどうだろう。テイクアウトするお客さんも多く見受けられた。
ランチタイムも終わって、フォトウォーク午後パート。
江戸時代から続いてる酒蔵、稲花酒造さんへ。
忙しかったようであまり詳しい説明はされなくて、ご自由にご飲酒ください、とフリードリンクタイムに突入。フォトウォークよりフォトトークなど雑談していた。
稲花酒造有限会社は400年前よりある伝統的な技によってお酒を造っており、通販にて長生郡一宮町の地からおすすめの商品皆様にお届けしています。酒蔵見学もできますので、ご希望の方はご連絡をお待ちしております。
酒屋さん見学後はフリータイム。暮れなずむ町を自転車で回る。
南側の景色。九十九里平野は一宮町あたりから房総丘陵の地形になっていく。
上の写真のように、線路が奥に続いて電車が吸い込まれていく構図って、どこかで見たことある心象風景に重なる。どこで植え付けられたかわからないけど、線路が続いていく構図に惹かれる。
おまけで紹介したいのが日の出の対、月の出。ムーンライズ。
月の出。みんなの方が綺麗に撮れると思うので頑張ってくれ。
満月の晩は、日没とほぼ同時に東の空から昇る。
夜の海は怖い雰囲気もあるけど、でも違う感じ方をしてみようと思えば、そこに流れる時間は確かにあって、わざわざ見に行くこともないけど、通りかかっていい具合に海原が照らされていて、ちょっと眺めるか、と目を遊ばせると意外と眺めていられるものです。
私の文章力では到底表現できない何かがあるのでしょう、たぶん。
私たちは感じたことを言葉にして認識している。
すべてが全てではないけど、言語化することが常であって、呼吸をするのと同じように感覚や神経から受け取った刺激は、言語に落とし込まれる。
でもこのプロセスには、忘れがちな大前提がつきまとう。
〝言語〟というありものに当て込んでいる、ということだ。その瞬間感じたことは、存在している言葉に直結するとは限らない。及ばないものもあれば溢れ出る要素もある。
「言語が違えば考え方が異なる」そんな言回しを聞いたことはないだろうか。日本にはサラサラやキラキラといったオノマトペもあれば、雨の降り方を表す呼び名が何十種類もある。使っている言語が抱えている語彙に依存して、認識できる世界の在り方・成り方は影響される。
しかし、言語化とは別に在り方を認識する方法がある。対象物を 絵 として描くことだ。
そこに言語はなく、ただ感覚のみと向き合う。言語化とは違うプロセスで世界を感じ取れる。
でもまぁ、毎回お絵かきセットを持ち歩くわけにもいかない。そこで カメラ だ。
見慣れた風景でもカメラで写真を撮ってみると、また違った感じ取り方ができる。「見慣れた」という言葉に当てはめて、わかった気になっているらしい。
瞑想ってどうやるの ──?
簡単さ、何にも考えなければいいだけさ ──。
そんなことを言われてもつい何かを思い浮かべてしまう。「言語を忘れてみる」というのは瞑想状態に入るための一つのコツになると思っている。
映画俳優のロビン・ウィリアムズは大の自転車好きで、自転車で走ることは動的瞑想だ (Mobile-Meditation)と表現したことがある。
自転車に限らず、サーフィンや登山など、黙々とする系のアクティビティには、そういった瞬間がある。
身体は動いているが、思考は止まり自然の風景と心が溶け込んでいく瞬間。世間の時間の流れから囚われのない状態にエスケープできた瞬間。自然空間とキャリブレーション完了した、今起きていることをしっかりと体感できている瞬間。
単純に身体を動かすことは、脳以外の器官を使って外的環境を感じ取っている、ってこともあるけど。
ふとある時気づいた。なんでいろんなことを〝評価〟に結びつけるようになっているのだろう、と。
改めて思い返すといろんなことに評価がつきまとう。メディアの報道や、コンテンツの善し悪し、ネット上で見る誰かの行動やつぶやき、さらには人間関係まで──。
何にでも 評価ベース を前提に物事に接して、善し悪しの判定・判断・評価を下す。
仕事関係は仕方がないかもしれないけど、それ以外のことを評価することってそこまで必要なのだろうかと疑問が浮かんだ。
自分がしている評価ってたぶん誰かの受け売りだ。その誰かも誰かの受け売りで良し悪し言ってるわけで中身は空虚に近い。同調するためか?会話の流れ?その評価はなんのため?
なんで評価に結びつけるのか考えたときに、縄張り意識なのかもしれないと思った。自己顕示欲。
優位に立ちたい(見せたい)から物事の優劣を裁断する、自分が適切な評価を下せるのかは二の次で。評価の応酬合戦。マウントの取合い。
人間が持っている原始的な本能の領域で、人間に限らずとも、生命体は縄張り行動(Territory-Behavior)がDNAレベルで組み込まれている。・・・たぶん。(完全なAIが完成したらテリトリー意識は持つのだろうか)
「空気を読む」という言葉の含みは「その場の評価に従え」だし、「新しい価値観」とは「これまでの評価ベクトルを変える」ことで生み出されていく。
人は評価される方に育っていく。所属する(したい)環境の評価に順応していくことを余儀なくされる。
いつしか対象物に向き合うのではなく、誰かの評価を見計るようになっていた。そしてくたびれる。
数年前、ある写真集を知った。「みさおとふくまる」ねことおばあちゃんを写した写真集だ。
のどかな田園風景の中で暮らすおばあちゃんとねこ。自然と調和して溶け込んで、お互いの関係性が伝わってくる、そんな写真。
後日驚いたのは、その写真が撮られた場所は、自分もよく知っている場所だった、ということだ。
何も見所がなく、寂しいけどこれからどんどん廃れていくと思っていた。けどそれは自分の狭い了見でわかった気になっていたことで、全く別の世界の見え方を提示され、実感した出来事だった。
田園の中で寄り添って暮らす“ふたり”の日常 ─『みさおとふくまる』初版2011年 ©伊原美代子
それから地方創生に率先される、地域おこしやまちづくり関連について、考えたり参加してみる頻度が増えた。自分の生まれ育った地域の強み、アピールポイントを考えたり調べたりして町のPRに繋げる。どんなことが他者から評価されるのか彷徨いは尽きない。
そんなことを繰り返していくうちに、誰かの評価に気を遣っているより、地域に根付いた営みを大切にできないだろうか、とぼんやり思った。
人が暮らしている場所には、どこにでも人のいとなみがある。観光客にウケるウケない / 映える映えないの視点で、そこに在る営みを蔑ろにするのは思い上がっているように感じた。
地元には魅力ないなぁ、なんにもない町だなぁ。と思っていても、タモリさんがブラっと歩いて、「意外と見所あったね」なんて言えば手のひら返し。人の評価なんてそんなものだ。様変わり。心移り。気まぐれ。
しなびれた少し薄汚れたお店も「孤独のグルメ」に登場すれば一躍人の束。アニメの聖地巡礼よろしく大盛況。
地域振興って、最終的にどうなりたいの?と考えたときに、暮らしている人たちが笑い合っている光景にたどり着けばいいなと思った。でもそういう光景はたまにあるし、「地域の魅力を発信する」って暮らしてる人が良い暮らしだと評価すればよいだけかもしれない。けど行政には住民が暮らしやすいように財政を使ってほしい。
歳を重ねるごとに時間の流れが早くなっている。誰しもが若い頃と比べたら身に覚えのある現象だ。
朝になったと思ったらもう夜で、金曜が終わったと思ったらもう月曜だ(げんなり)
ひとつの仮説が浮かんだ──
これは、退屈な就業タイムの苦痛を和らげるために、自分の脳が生成してしまった高度な アルゴリズム なのでは?
だったら足掻いてみたいと思った。急行列車に乗せられて通過していく景色を眺めるのではなく、自転車で進むように。なにか打開策があるはずだ。あってほしい。
言語化のことや評価の考えは、別のきっかけから思いついたことだけど、〝時間の流れ〟を考える上でどこかつながっているように感じる。
そこで見た景色や湧き上がった感情、空間、そして時間を、言語に落とし込めば僅かなものに収まってしまい、評価に結びつければその土俵の中で際限ない格付けに陥る。
結局は、どちらも逃れることは難しいのだけれど、その狭間で可能性を模索してみる。(それこそ誰かの評価はお構いなしに)
その際はカメラ片手に、そしてこのブログ的にもどうぞ自転車をご贔屓に。